<DAY BY DAY>



一世を風靡した女たちには、
そのイメージを永遠に伝えるべく、
花にその名が冠せられるという、特権がついてくるようです。

この、
『三つの花』のタイトルプレートにも、
実在の花々を描いてみました。


蘭 “マリリン.モンロー”。

薔薇 “マリア・カラス”。

そして、
“ジャクリーン”というチューリップ。



“ジャクリーン”とは、
かのアメリカ大統領、J・F・ケネディの未亡人にして、
世界一の海運王、アリストテレス・オナシスの妻となった、
あのジャッキーです。




ケネディ大統領と、マリリン・モンローの情事は、
あまりにも有名な話ですよネ。
そして、マリア・カラスは、
20世紀最高のオペラ歌手にして、
オナシスの長年の愛人であった、プリマドンナです。




モンローもカラスも、
その実力で名声を勝ち取った女たちでした。
ハリウッドのヴィーナスと、世界のディーバ。
世紀の美の化身二人が、
時代の頂点に立つ男たちから求められたのは、必然です。
その二人の男を額ずかせた女、
ジャクリーン。




彼女のチューリップは、ファーストネームだけ。
ケネディと付けるにも、オナシスと付けるにも、
障りが生じてしまう。。。
けれど、この二つの偉大な名前をつないだ、
希有の女性として、
花の名前に残さずにはいられない存在。
それが、ジャッキーです。




この五人が綾なすドラマに、
脇役はいません。
ゴージャスな、ロマンスのペンタゴン。
甘美な誘惑に彩られた、
20世紀最大の、スキャンダルです。
それはまた、あまりにも熾烈な運命の物語でもありました。




※※※※※




三人の中では、ジャクリーンが一番年下です。
マリア・カラスが1923年の生まれ。
マリリンがそれから3年後、
ジャクリーンはさらに3年後に生まれています。
ほぼ同世代の彼女たちですが、
その生い立ちは、それぞれに違っていました。



※※※

マリアはギリシャ移民の娘です。
両親が大西洋を渡って来た、その四ヶ月後に、
ニューヨークで生まれました。
自由の新天地アメリカは、
実際には、貧富の差が歴然と確立された階層社会で、
移民たちは、マイノリティとして底辺の暮しに甘んじていました。
両親は、マンハッタンでドラッグストアを営んでいました。

が、彼女が7才になった頃、アメリカを突然襲った大恐慌で、
店はつぶれてしまいました。
結局、母親は夫と別居して、
13才のマリアを故国ギリシャへ連れて帰ります。
早くから、娘の歌の才能に気付いた母親は、
5才から音楽教育を受けさせていました。
ギリシャで、マリアは、名門のアテネ音楽院に入学します。
5年間、本格的な勉強をした後、
18才の年に、代役ではありましたが、
プッチーニの『トスカ』で、プロデビューしました。



※※※

マリリン、本名ノーマ・ジーン・モーテンセンは、 
1926年に、ロサンジェルスで生まれました。 
父親のいない誕生でした。 
母親が、時折精神病に悩まされる状態であった為、 
ノーマはすぐ里子に出されています。 
多くが、楽とは言えない暮しをしている時代に、 
ワケありの私生児として生まれて来た子供は、 
初めからやっかいものでした。 
 里親や親戚の間をたらい回しにされながら、 
ノーマは不安定な10代を送りました。
16才の時に、施設に入るか、近所の男の子と結婚するか、
という選択を突き付けられ、
彼女は結婚を選びます。
ほどなくして、働きに出たパラシュート工場で、
ノーマは、たまたま訪れた米軍の映画班の目にとまり、
兵隊用のピンナップ写真の被写体になりました。
これがキッカケとなって、
次々と男性雑誌のポートレートの仕事が来るようになり、
ノーマは、モデルとして世の中に出始めるようになります。


※※※

ジャクリーンは、マリアの誕生から6年後の1929年、
同じNYで生まれました。
しかし、その境遇には雲泥の差がありました。
ジャッキーの父親は、ウォール街の有名な株式仲買人で、
母親は、NY中央貯蓄銀行の頭取の娘でした。
社交界の一翼を担う家の令嬢として、
ジャッキーは、高級住宅地の邸宅で、優雅に育っていきます。
父、ジャック・ブーヴィエの家系は、
フランス貴族にまで遡る名家として通っていました。
実際の先祖は、ただの使用人でしたが、
1920年代のNY社交界では、それが事実となっていました。
“ブラック・ジャック”の異名を持つ、
この黒髪に口ひげの魅力的な父親の容貌は、
後年生まれて来る、ジャクリーンとケネディの息子、
J・F・ケネディJr.に、受け継がれているようです。
ジャッキーは、この父を心から愛していましたが、
両親は、彼女が11才の時に離婚してしまいました。
2年後、母親は再婚します。
彼女の繊細な心は、大人の事情に傷つきますが、
彼女の暮しは、上流の令嬢のままでした。
1947年、社交界にデビューした18才のジャクリーンは、
“デビュタント・オブ・ジ・イヤー”の栄冠に輝きます。



※※※

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ、=ジャックは 
1917年、ボストンで生まれました。 
ジャクリーンとは、ちょうど12才違い。 
日本風に言えば、ひと回り上の巳年ということになります。 
ケネディ家は、ジャックより四代前に米国に渡って来た、 
アイルランド移民の家系です。 
代々エネルギッシュに基盤を築き上げ、 
ジャックの父親ジョゼフの代では、 
ボストン有数の富豪にまでのし上がっていました。 
しかし、この富は、禁酒法時代に酒の密売で得たという、 
黒い噂が囁かれるものでもありました。
当時のアメリカ合衆国を牛耳っていたのは、
WASPと呼ばれる、ほんの一握りの特権階級でした。
White, Anglo-Saxon, Protestant。
“アングロサクソン系でプロテスタントの白人”だけが、
合衆国の真の優位者であると考える、スノッブな階層です。
アイルランド系、ユダヤ系、黒人などは、差別対象とされていました。
その中で、父ジョゼフは、有力な富豪として、
駐英国大使にまでなったのですから、
アイリッシュにとっては、王にも等しい存在でした。
このケネディ家の人々は、大変な負けず嫌いで、
向こう見ずなほど勇敢、という特性を持っていました。
次男坊のジャックも、他の8人の兄弟と共に、
早くから競争心を植え付けられて育ちました。
彼の転機は、第二次大戦中の1944年、27才の時に訪れます。
父の期待を担う星、長男のジョゼフ・ジュニアが、
自ら操縦する爆撃機の墜落で、戦死したのです。
父ジョゼフの野望は、この家からアメリカの王を出すことでした。
ジャックは、ケネディ一族の新しい期待の星となります。


※※※

アリストテレス・ソクラテス・オナシス、=アリは、
1900年に、富裕なタバコ商人の子供として、
トルコの港町に生まれています。
しかし、バルカン戦争の動乱の中、
ギリシャ人だったオナシス一家は、敵国国民として、
トルコで難民となってしまいます。
非常に頭が良く、機知に富んだアリは、
文明の十字路と言われたトルコにあって、
6ケ国語を駆使できるようになっていました。
貧しい暮しに見切りをつけると、
16才で、単身アルゼンチンへと渡ります。
様々な職種を転々とした後、
深夜の電話交換手という仕事の中に、
アリは、金儲けの糸口を発見しました。
ブエノスアイレスは、
ロンドンとニューヨークの、時差の間に位置しています。
欧米の株式市場の閉まった後に動く、大きな取引を、
ここブエノスアイレスでキャッチ出来る事に、気が付いたのです。
アリは、めぼしい情報をそっとメモしては、
自分も小遣いを投資するという、インサイダー取り引きで、
小金稼ぎの生活から抜け出し、
タバコの輸入で一儲けします。
さらに、ギリシャ領事に取り入った彼は、
外交特権を悪用し、欧州の外貨を闇市で売り捌くという手法で、
20代後半で、百万長者となりました。


※※※※※


1953年、ジャクリーンはジャック・ケネディと結婚します。


ヴァッサー女子大から、ソルボンヌ大学への留学を経て、
独身時代のジャッキーは、NYのタイムズ・ヘラルド社で、
インタビュー・カメラマンの仕事についていました。
大半の上流の令嬢たちの理想は、
学生時代に、少しばかりロマンスを経験したら、
然るべき男性と然るべき結婚をして、良妻賢母になる、
というものでしたが、
反発心の旺盛なジャッキーは、
自分が身を立てて行ける職業を持つことに憧れていました。
インタビュー・カメラマンとは、
街頭インタビューをして、街のトピックスを記事にするという、
本物の記者なら敬遠するような些末な仕事でしたが、
ジャッキーは喜々として取り組んでいました。
タイムズ・ヘラルドに入社した翌年の冬に、
ジャッキーは、友人夫妻からディナー・パーティーに招待され、
そこで、ジャック・ケネディと再会します。
同じ上流社会のメンバーとして、
数年前から顔見知りだったジャックは、
女性から絶大な人気のある、35才の上院議員でした。
“デビュタント・オブ・ジ・イヤー”のブーヴィエ家の令嬢と、
ケネディ家の御曹子とは、釣り合いの取れたカップリングです。
ディナー・パーティーは、
実は初めから、二人を会わせる為のお見合いでした。
こうして、ジャクリーンはジョン・F・ケネディ夫人となります。
蓋を開けてみれば、
ヴァッサー女子大の級友たちと同じコースを選んでいた、
24才での結婚でした。






この'53年頃には、ノーマ・ジーンとマリア・カラスの人生も、
大きく変わっていました。





20才で、20世紀FOXと契約したノーマは、
髪をブルネットからプラチナ・ブロンドに染め変え、
鼻先や歯の整形手術も受け、
ハリウッド女優、
マリリン・モンローとなります。
何本もの映画に端役で出演しながら、
'50年に公開された2本の映画、
『アスファルト・ジャングル』と、名作『イヴの総て』で、
脇役ながら、
その存在感が注目されるようになります。
そして、'53年に、モンローウォークで有名になった『ナイアガラ』、
『紳士は金髪がお好き』『百万長者と結婚する方法』の3本が、
ミラクルヒットを飛ばし、一躍大スターの座に躍り出ます。
ハリウッドの虚々実々の駆け引きの中、
食べる為に撮らせた無名時代のヌードカレンダーが流出し、
危うくスキャンダルになるところでしたが、
『ナイアガラ』の制作サイドはこれを逆手に取って、
興行的な大成功を導きました。
スターの証明として、
チャイニーズ・シアターの前庭に、手形を押したマリリンは、
この時から、アメリカのセックス・シンボルとなります。
私生活にも変化が起き、
ニューヨーク・ヤンキースのスター選手、
ジョー・ディマジオと結婚して、国中の話題になりました。
ジャック&ジャッキーの結婚の翌年、'54年のことです。



この'54年に、マリア・カラスは渡米し、
シカゴで『椿姫』の公演をしています。



1947年、24才の時に、
イタリアのヴェローナ音楽祭で『ジョコンダ』を歌って以来、
マリア・カラスの名は、一躍世界中に轟き、

どの海外公演も、チケットは即日ソールドアウトになる、
大プリマドンナになっていました。
'49年には、マリアを発掘したパトロンの富豪、
ジョバンニ・メネギーニとの結婚もしています。
マリアの歌唱法は、
声質、音域、声量とも、抜きん出て豊かだった為に、
力強くドラマティックで、
ベルベットの嵐と評される、濃厚で情熱的な歌い方でした。
そのマリアが、この頃に大変身を遂げて、
世界を驚かせます。
実は、'52年頃までのマリアは、100キロを超える身体でした。
イタリア映画界の巨匠、ルキノ・ビスコンティがプロデュースする舞台出演を期に、
マリアは、体重を半分近くまで落とすことに成功したのです。
象から蝶へ、と言われるほどの、
美しい変身でした。
この痩身談には、エピソードがあります。
ローマへロケにやってきたオードリー・ヘプバーンを見て、
刺激を受けたというものです。
'52年に、オードリーは『ローマの休日』を撮っています。
その後の、マリアのジャケット写真などを見ると、
化粧法やファッションが、確かにヘプバーンを思わせます。
マリアは、名実ともに、美しき世界のプリマとなって、
シカゴ公演に赴いたのです。






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そして、
運命の輪は、この人々を結び付けるべく、
大きく廻り始めます。




1960年。
J・F・ケネディは、アメリカ合衆国第35代大統領となりました。
すべての物語は、ここから始まります。








クリムト『接吻』より






『三つの花』vol.2へ続く。










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