サンドロ・ボッティチェッリ Sandro Botticelli の部屋

                                 〜ルーム





 ロレンツォの戦さ 


ジュリアーノを死に追いやった陰謀の黒幕は、時のローマ教皇でした。

教皇は、共和国フィレンツェを影響下に置こうとしましたが、
ロレンツォが拒否したので、メディチ家を排斥しようと画策したのです。


共和制に誇りを持っていたフィレンツェ市民は、支配されることが大嫌いな人たち。。。
市民の、市民による、市民の為のフィレンツェ、なワケです。

事の真相を知った市民はロレンツォに味方し、
一緒になって、陰謀の実行者や教皇庁から派遣された枢機卿をぼこぼこにヤッちまいます。

それで70人なんて数になっちゃったんですね、な〜る…。


敢然たる復讐で歯向かってきたロレンツォと、それを支持した市民に教皇は激怒、
フィレンツェに宣戦布告します。

教皇とナポリ王国との連合軍に侵入されたフィレンツェは、市民一丸となって戦いますが、
決着がつかないまま包囲網を敷かれてしまいます。

いわゆる籠城戦って感じですか、1年半ぐらい囲まれちゃったんですね。

この間のフィレンツェはというと、経済状態が悪化し、更にはペストの流行も重なったので、
市民もいい加減疲れてきます。


そんな中で、ロレンツォはフィレンツェを脱出します。

裏切ったかロレンツォ!

なんて思っちゃいけません。


彼はなんと、単身で敵地ナポリに乗り込み、直接王様と話をつけて、停戦を成功させちゃったんです。


なんちゅー度胸。。。なんちゅー実行力。。。捨て身の暴挙です。

着いた途端に斬られたって文句は言えないのに、無事に帰って来ちまいました…おみやげ持って。


このロレンツォという人は、不細工だったけど
(失礼…m(_ _)m )本当に人間力のある人だったんですね〜。

フィレンツェが篭城という形を取ったのも、彼の性格が反映されているのかもしれませんね、
なるべく犠牲を出したくないという。

教皇庁との同盟関係を守っていたナポリも、こうも長く戦争状態が続くと、
もはやデメリットに敏感にならざるを得なくなっていたんじゃないでしょうか、
ロレンツォは機を見ていたわけです。

祖父コジモ譲りの才覚…いえ、政治的手腕はコジモを超えています。

現代で言えば、グチャグチャになったイラ○から米の国に乗り込んで、
祖国に何の損害ももたらさない条約を結んで、戦争を終結させる個人、なんて、
ありえないでしょお?

そーゆーことを、ロレンツォは一人でやったわけです。
(まあ、かの国ほど悲惨な状況では、フィレンツェはなかったですけど)


市民に害が及ばないように、いざという時の犠牲は自分だけで済むように、
命がけでフィレンツェを守った。

と、思いますよね、市民は。

凱旋は歓呼の渦で迎えられたそうです。

ロレンツォは、真のカリスマとなったのです。


軍隊を持たない教皇庁は、ナポリの離脱によって戦争終結宣言を出さざるを得なくなりました。

ほどなくしてこの仇敵も亡くなり、教皇は代替わりします。

以来フィレンツェは、このイル・マニーフィコ、ロレンツォを中心に、平和な春を謳歌することになります。

列強諸国との危機はたびたび起こりましたが、ロレンツォはその度に武力より智力を選び、
卓越した外交手腕で、ひとつひとつの難題を平和的にまとめあげていきます。

このロレンツォの、「組ませず 戦わせず」という政治姿勢はイタリア諸国にも浸透し、
大きな戦争はしないようにしようねという暗黙の協定が生まれて、
国家間は安定したパワー・バランスを保つことになります。

つまり、彼の努力によってイタリア中が平穏な日々に落ち着いたわけ。

大政治家ですね。

ロレンツォには、ナポリからの帰路、
           雇ったガレー船の漕ぎ手の奴隷たちを、自由にしてやったという逸話が残っています。




アカデミアの教えが彼の中心から離れることは、なかったような気がします。





Another view  『プリマヴェーラ』 と1478年


  この、フィレンツェが戦争状態にあった期間というのが、1478年から80年。

  ルーム3で展開したのは78年制作説に基づいた妄想でしたが、これでちょっと疑問を持つのも確かなのですね。

  戦争してる最中に、のんきに絵なんて描いてられるのか?

  まあ籠城戦ですからねぇ、78年には蓄えも十分あったろうし、
  比較的激しい攻防があった最初の何日かは別として、後はひたすら市街にこもりっきりなワケだから、
  ボッティチェッリには時間がたっぷりあったでしょうし、
  そういう時ほど別世界に没入したくなったりもするだろうし、
  描く分には問題なさそうな気もしますが。

  ロレンツォの方にもそんな余裕があったかどうかは、、、うーん分かりませんねぇ。

  でもむしろ、そもそもの原因はジュリアーノの敵討ちなのだから、
  早く描かせてこの絵によって戦意を高揚させた、かもしれない。

  そう思うとまた別の妄想を呼び起こされちゃいますけど(笑)






 アカデミアのクリエイター 


ボッティチェッリにとっても、この10年は一番充実した時期でした。

神話の世界からテーマを得た繊細な女性像が描かれた傑作は、この時代のものです。



Venus and Mars 1482-83

『ヴィーナスとマルス』 面白い絵ですよね、
天界の夫婦の日常(実際は愛人関係。しかし長いおツキアイなのでもはやそんな感じ?)

マルス…思いっきり爆睡中(笑)
闘いの神様ですからねぇ、戦士の休息といったところですか。

このヴィーナスの風情が、丸諒には慈愛というより呆れているように見えて、つい笑っちゃう絵です。

でもこれ、キャプション付けづらい絵だなぁ〜ただ綺麗なだけじゃん、と思ってたんですが、よく見ると…凄い絵だったのですね。

男女が同格。

鏡のように対照的な構図で、どちらも主役、どちらの立場からみてもお互いを引き立て合って格負けしてない…。

見れば見るほどよく出来た絵だと思う〜。

こういう風に、男性と女権を並べてみせた絵ってのは、それまではもちろん同時代にも無いんじゃないだろうか?

ボッティチェッリって…本当に異色なんだなぁ〜、実感しちゃったよぉ。

強烈に、ギリシア神話の本質とアカデミアの理想を表した絵なんですね、ほとんどプロパガンダ。。。


ボッティチェッリとメディチ家、というのは、まったく幸運な出会いだったんですね〜。

彼の画風は、アカデミアの思想やロレンツォのセンスに触れたことでどんどん洗練され、
独特な優美の極みを生み出せたんじゃないでしょうか。

アカデミア側から見れば、望むとおりのテーマを望む以上に描き出せるボッティチェッリは、
またとない具現者だった、ってことでしょうかね。

その意味では、彼もまた新プラトン主義の門弟と言えるかもしれませんが。

すごい感受性の持ち主だったんですね、ボッティチェッリって。

いや〜、この構図は驚いた。気づいてよかったぁ。



 『パラスとケンタウロス』
 新プラトン主義のテーマがもっとも表されている絵だそうです。

 本能を制す理知、って感じですかね。

 しかしここでは、もはや女権が男性を凌駕しちゃってるもんな。

 ケンタウロスのしおしおのパーの顔を見てると、
 女性への期待というか希望というか、
 叱ってほしいのね(笑)というような甘えを、ちょっと感じる。

 アカデミアの男たちって実はやんちゃだったのかも、
 ムズカシイ哲学なんかやってるけど。

 パラスの頭や身体に絡む月桂樹、かナ、
 丸諒は特に、この葉のあしらわれ方がとても好きです。

 ボッティチェッリの描く植物は、命の息吹を持っていると思います。

 『プリマヴェーラ』に描かれている草花も、
 現在でもフィレンツェの周りで見られるんですって。

 500年経ってもそれと分かるって、色んな意味でスゴイですね。

 丸諒、なぜかこの絵で“大騎馬槍試合”を思い出しちゃうんだよな。

 そういえばこのパラスは、フローラとモチーフが一緒ですよね、
 柄のついた衣装に、身体にまつわる植物。

 関係。。。あるのか?

 もう1枚、同じモチーフの女人像が残っていれば、
 また新たにシモネッタを絡めた考察もできそうですが、
 今の段階では『プリマヴェーラ』と関連する説は出てないようですね。
Pallas and the Centaur 1485


どうもボッティチェッリって、少なくともメディチ家に対しては、画家というよりクリエイターって感じがしてきました。

最先端の、ニーズに応える人。。。そう、なんか現代のCMディレクターを思い出しちゃうんですよね。

でも、この完成度の高さからは、ボッティチェッリ個人の夢や喜びが感じられます。

なんか、一生懸命、心から描いた感じ。。。

彼はロレンツォに心酔しきっていたんじゃないでしょうか。

なんとなく、あの熟睡するマルスの姿にロレンツォを見てしまう丸諒です。


ここには丸諒が好きな絵しか載せていなくて、彼の作品は他にもまだあるのですが、
にしても、これだけ有名な画家の割に、調べてみると作品数が意外に少ない気がしていました。

片手間で描いていたようなダ・ヴィンチでさえ20作品は残っているのに、
プロの絵師であるボッティチェッリの絵は、それよりも少ないんじゃないかと思うぐらい。


本当は、現在残っている数よりもっと多くあったらしいんです。


それは、最初に書いた三期目の変容と関係してくる話なのですが。。。






Another view  『プリマヴェーラ』 の持ち主


 『プリマヴェーラ』が、メディチ家の分家筋の別荘にあったことは、冒頭でもお伝えしましたよね。

 イル・ポポラーノ=庶民的な人、と呼ばれるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコが、館の主です。

 イル・ポポラーノはコジモの兄弟の孫で、少年時代に父を亡くしてから、
 弟のジョバンニとともにロレンツォに引き取られて育ちます。

 お父さんが亡くなったのが、これまた例の教皇との戦さがあった年なのです。
 なんか絡んでるんですかねぇ?

 『プリマヴェーラ』が1482年に描かれたとすれば、イル・ポポラーノは19才。
 ロレンツォが彼の結婚祝いに贈った、という説も、年齢的に見れば不思議はないのです。

 思春期に引き取られたこの兄弟も、当然アカデミアの薫陶は受けていたでしょうし、
 長じたイル・ポポラーノには、この時代の教養人として認められていた気配もありますし、
 (アメリゴ・ヴェスプッチは、アメリカが大陸であると看破した手紙をイル・ポポラーノに送っています)
 アカデミアからの寓意的なお祝いを受けても、無理のない人物かもしれません。

 ただ、丸諒が初めにこのエピソードを聞いた時の印象は、
 そんなお目出度い絵?には見えないぞお?
 この違和感は、解消されていないのですね…。気になります。

 今回はちょっとまだ、その観点から確かめるほどには、丸諒の能力が追いついてません。(- -;)

 でも、こういうものって第一印象が当たってたりすることも、あるんじゃないかと思うんだけどなー。ぶつぶつ。






 神々の黄昏 


1492年4月、イル・マニーフィコ=ロレンツォが亡くなります。

持病の痛風に倒れたのだと言います。

思えば、影の薄い父親ジョバンニのあだ名は、イル・ゴットーゾ=痛風病み!
体質遺伝でしょうかねぇ。


でも、ロレンツォは絶え間なく胃痛に悩まされていたとも書かれているのです。

政治家としての天才を授かりながら、
本当は、厄介な深慮策謀などしないでいられる生き方をしたかったのかもしれませんね。

若き日、大衆と共に派手な遊びに興じ、麗しきアカデミアにのめり込んだ、その姿こそが、
ロレンツォだったのかもしれません。


奇跡的なパワーバランスを生み出し、太平の世の要となっていたこの偉大な政治家の死を聞いて、
ローマ教皇は、
「イタリアの平和が死んだ!」
と叫んだそうです。


ロレンツォが43才の生涯を閉じた日、
あのサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会に雷が落ち、尖塔が真っ逆さまに落下したと伝えられています。



それは、予兆だったのかもしれません。   

フィレンツェに、最悪の時代が始まったのです。
そしてそれは、ボッティチェッリの悲劇の始まりとも言われています。    



ルネッサンスは、力をつけた商人がそのエネルギーを爆発させた時代でもありました。

華美と享楽がもてはやされ、タガが外れたように生を謳歌する。。。日本のバブル期と重なるイメージです。

しかし、商人の本性は質素と倹約にあります。

人々は浮かれながら、このままでいいのか、神の罰が下るのではないかと、
大きく揺れ動く内面も抱えていました。

彼らは全員キリスト教徒でもあったのですから。

そんなフィレンツェに付け入るように登場してきたのが、サヴォナローラという修道士です。

ロレンツォとは正反対の、もう一人のカリスマです。


サヴォナローラは異教の神々を激しく攻撃し、
この世の終わりが来る、イタリアに神罰が下ると予言し、人々を恐怖に落とし入れます。

時経ずして、イタリアは教皇の心配通り不穏な情勢に逆戻りし、
均衡を失った隙を突かれて、大国フランスの侵入も許してしまうという混乱に陥ります。

フィレンツェには、この過激な修道士に心酔する者があっという間に増え、
異教的なものをことごとく排斥する、熱狂の渦が広まります。

メディチ家は、フィレンツェから追放されてしまいます。

虚栄の焼却の名の下に、フィレンツェの芸術作品の三分の一が焼き払われたとも言われ、
ロレンツォがこよなく愛した文芸都市は、その死からたった2年で狂信の街へと変貌してしまったのです。


そして、その渦の中に…ボッティチェッリもいたというのです。。。

彼は自ら、異教の神々を描いた作品を焚火に投げ入れたと、そんな話が残っています。

なぜ、そんなことに…



ロレンツォが亡くなってからの彼の作風は一変します。



女神はもういない。



キリスト教の世界に戻った彼の絵から、丸諒はあたたかみを感じることはできませんでした。

描かれていたのは、厳しさと悲しさ。

同じ画家の絵とは信じられないほど、あのきらめく光はありませんでした。


燃やした逸話が真実だとしたら、いったいどれほど多くの美しい愛の世界が、天上に返されてしまったことでしょう。



あ・・・もしかして・・・

そういうことだったのでしょうか?


ボッティチェッリは人に焼かれる前に、自ら生み出した地上の美を、天上に返した…?!


そうかもしれない。そうだったら…、そうであってほしい!




サヴォナローラの狂信の時代は、結局4年で終ります。

このたった数年が、ボッティチェッリの人生まで焼き尽くしてしまったのかもしれません。

この後、彼は絵筆を絶ったと言われています。


メディチ家は復権しましたが、フィレンツェに元のような輝きが戻ることはありませんでした。

ルネッサンスはフィレンツェから離れて、最後の大輪の花を咲かせはじめます。

時代の頂点に立った芸術家はミケランジェロとラファエロ、そして、ダ・ヴィンチでした。

ボッティチェッリは忘れられていきます。

フィレンツェの街を彷徨い歩く貧しい65才の彼が、
かつて、この世と天上を結ぶ美の架け橋を創り出した天才であったことなど、まぼろしだったかのように。


ボッティチェッリの亡骸を引き取ったのは、ヴェスプッチ家でした。

メディチ家との繋がりは、もはや無くなっていたのですね…。


『プリマヴェーラ』も『ヴィーナスの誕生』も、画家と一緒に永い眠りにつきます。





“春”が、再び太陽を取り戻すのは19世紀になってから。


“ラファエロ前派”の画家たちによって再発見され、300年以上の眠りを解かれることとなったのです。

イル・ポポラーノの別荘で身を隠すように息づいていたからこそ、焼かれずに済んだ2枚の絵でした。



ボッティチェッリは永遠の青年であったような気がします。

快活さの裏側に気弱さを隠して、偉大なるものに憧れ、いちずに感応した、純粋で繊細な情熱。


彼は二人のカリスマに、人生を託してしまったのですね。

光と影の、真逆のカリスマに。。。


ダ・ヴィンチのように、
孤高を貫く強靭さがあれば…


でも、それではきっと、
春は生まれてこなかったのでしょうね。

そう、時代の春も。


ボッティチェッリは、
ルネッサンスがその美しい指を傾けて、選んだ人だった。






イル・マニーフィコに愛された、実に愉快な男。。。

ボッティチェッリ。

その名前が忘れられることは、もう二度とありませんよ。















  『プリマヴェーラ』を巡る旅は、これにて終了です。

  個人的にはとっても良い勉強ができたし、こんなに魅力的な人たちに出会えたし、

  素人ならではの暴挙も敢行できたし(笑)

  楽しかったです。

  図像解釈学の学者さんの大変さを、チョットだけ分かった気になりつつ、

  しかしいきなり最も難解な絵と言われているものに取り付いてしまったので、

  時間が経てば、また違うものが見えてきそうな気がしています。

  そうなれたらいいナ。



  長々と読んでくださって、感謝しておりマス。

丸諒