サンドロ・ボッティチェッリ Sandro Botticelli の部屋 〜ルーム2〜 |
| 花のジュリアーノ |
ロレンツォの弟、ジュリアーノ・ディ・メディチ(1453-1478)は、 イル・ベッロ=美しき者とあだ名されるほどの美男でした。 気さくで陽気な血筋に次男坊の身軽さが加わって、その上この一族には珍しいイケメンなのですから、 大衆から愛されないわけがありません。 兄ロレンツォが主催した「大騎馬槍試合」でジュリアーノが登場すると、 その惚れ惚れするようなあで姿に人々はやんやの喝采を贈ったと言います。 花のジュリアーノと謳われた、まさにフィレンツェのプリンスでした。 |
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ボッティチェッリ 『ジュリアーノ・ディ・メディチの肖像』 1478 |
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自慢の弟、自慢の兄。 どこに行くのも一緒だと言われるほど仲の好いこの兄弟に、 突然の悲劇が襲ったのは、 槍試合から3年後のことでした。 メディチ家の台頭に業を煮やした有力貴族が暗殺を企て、 復活祭のミサに参列中の二人を刺客に急襲させたのです。 ロレンツォはからくも逃れましたが、 刃にかかったジュリアーノは非業の死を遂げてしまいます。 まだ25歳でした。 突然の惨劇に驚きメディチ家に詰め寄せた人々は、 窓辺に現れたロレンツォの姿を見て「メディチ家万歳」と歓呼したと言います。 この時のロレンツォの怒りは凄まじく、 陰謀の加担者70名を処刑すると遺骸を政庁の窓から釣り下げました。 後にも先にも、ロレンツォが鬼神と化したのはこの時だけです。 |
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| サンタ・マリア・デル・フィオーレ 花の聖母教会 この美しいフィレンツェのシンボルで そんな事件があったんですねぇ… |
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| ボッティチェッリ 美しきシモネッタ 1480-85 ![]() |
ジュリアーノには、一つの恋の伝説が残っています。 あの華やかな一大ページェント「大騎馬槍試合」で、 優勝者は美の女王ミネルヴァから冠を授けられることになっていました。 そのミネルヴァ役をつとめたのが、シモネッタ・ヴェスプッチ。 ボッティチェッリのパトロンであった家に嫁いできた、人妻です。 ラ・ベッラ=美しい人と呼ばれたシモネッタは、 フィレンツェ一の絶世の美女でした。 そのシモネッタを恋人に選び、ボッティチェッリが描いた彼女の姿を旗印に、 彼女の為に戦ったジュリアーノは、見事優勝をもぎとります。 |
銀の甲冑をまとったイル・ベッロの頭上に、ギリシャの女神のようなラ・ベッラが宝冠を授けた瞬間、 祭りは最高潮に達しました。 人々はこの美しい二人に、フィレンツェの恋の理想を見たのです。 |
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しかし、シモネッタはこの翌日から高熱を出して床に伏し、 翌年、肺結核で23歳の生涯を閉じてしまいます。 シモネッタが亡くなった時、 街はいっせいに打ち鳴らされる鐘の音で包まれ、 フィレンツェ中がその死を悼んだと言います。 ロレンツォはシモネッタの様子を、 フィレンツェ市民は驚愕に包まれていた。 何故なら、彼女の死顔の美しさは、生前のそれを超越していたからだ。 彼女を前にすれば、死もまた美しい・・・ と書き残しています。 ジュリアーノの死は、それから2年後のことでした。 |
![]() ダ・ヴィンチによる シモネッタの亡骸のスケッチ |
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| 『春』のシモネッタ |
この、花のフィレンツェの二つの悲劇を悼んで、ロレンツォが夭折の佳人二人の姿を写させたのが、 『プリマヴェーラ〜春〜』だという説があるのです。 ジュリアーノはメルクリウス、シモネッタは花の女神フローラとして。。。 ![]() そ、そーなのか。 ボッティチェッリには彼女を題材にしたらしい他の作品も残っています。 |
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![]() Portrait Of A Young Woman After 1480 |
どちらの絵も、 彼女が亡くなって5年以上経ってから描かれています。 タイトルも覚書きも無いので、 これらが実際に彼女をイメージしたものか、 真説は出ていません。 シモネッタは時代のミューズとして、 多くの絵画や詩のテーマになっています。 ロレンツォの言葉からも、 この時のシモネッタは、 すでにフィレンツェの神話になっていたような、 丸諒的にはそんな気がします。 髪形が美しい。。。 このくっきりとした髪の描き方は、 線の詩人ボッティチェッリの真骨頂ですよね。 |
右の絵は『神話風の装いをした若い女性』 という訳になるでしょうか。 この頃はボッティチェッリがアカデミアの常連だった時期です。 彼はダ・ヴィンチとは違って、 パトロンのお気に召す画風やテーマで描いた職業人です。 色んな意味でロレンツォの好みが反映された絵であるのは、 確かな気がします。 で、この神話風の女性、 『プリマヴェーラ』の貞節に似てる…と、丸諒は思うのです。 |
Young Woman in Mythological Guise 1480/1485![]() |
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| どうでしょう… なんて言うか 風情とか性質が 同じ気がするのですが |
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←反転させてみました |
もし『プリマヴェーラ』にシモネッタが描かれているなら、丸諒の感覚ではフローラとは思えないのです。 |
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だいたい丸諒、 このフローラ怖いのれす。 たぶん他に比べて一人だけ、 顔が生身っぽいからかも。 そのくせ、 なんか、能面を思い出しちゃうの。 思いっきりな主観ですけどネ。 |
これこれ→ |
まあ、ウフィッツィ美術館で本物を見れば、またぜんぜん違う顔つきなのかもしれないけど、 この超然としたムードに、薄命の佳人と言ったはかなげな風情が感じられなくて、 これをシモネッタとするには違和感を覚えるんですよねー。 丸諒的には、メルクリウスを見つめる“貞節”の、憂いを含んだまなざしがすごく引っかかるのです。 ただの、恋の予感に震える乙女とは思えない。 なんかせつない感じがするんだもん。 |
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| ではではこの辺りで、古今の解釈をもとに丸諒の想像、妄想(笑)に入ってみようと思いマス。 |
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| この絵は制作年代にいくつもの説があります。 1477年か78年というものと、1482年か85年というもの。 丸諒が推測するに、この年代は言い伝えをもとに考えて、だったらこの年だろうというように、 後から当てはめたものではないかと思われます。 70年代説はジュリアーノにまつわるエピソードを、80年代説は分家のロレンツォへの結婚祝いという言い伝えを、 基にしているのだと思います。 この1478年というのは、ジュリアーノが暗殺された年なのです。 これはちょっと見逃せない事実!ソソられます。 というわけで、70年代制作説から丸諒の妄想<delusion>を進めてみたいと思います。 果たして何が飛び出してくるか、ドキドキだ〜★★★ |
| delusion1 蒼いゼフュロス |
西風ゼフュロスはクロリスに恋をして春の風を吹かせます。 クロリスはその息吹を吸って、開いた花をどんどんこぼしていきます。 その花咲くエネルギーが頂点に至ったとき、彼女は本物の“春”フローラに変身します。 ここには、冬から春への時間の躍動が描かれています。 彼は冬の世界との境界から飛んできて、まだ温まっていないので、 こんな寒そうな色合いになっているんじゃないでしょうか。 彼が身体も心も温かくなるのは、クロリスへの思いが成就した時。 それはもう時間の問題…。 次の瞬間には、春を運ぶ風らしく、ゼフュロスの姿は愛のエネルギーで黄金色に輝くのです。 |
| delusion2 生きているフローラ |
丸諒がこの絵から一番違和感を感じるのは、フローラとメルクリウスの描き方です。 顔が怖いと思ったフローラは、一人だけ花模様の衣を着ているせいもあって、 妙にリアルに感じるのです。 草花を踏んで絵の外まで歩み出てくるような、肉体の重さが感じられる。 メルクリウスは、この絵のドラマとは無関係にあらぬ方向に気を取られていて、 その隙のある姿が、その辺の若者みたいで。。。 一方で、彼ら以外の登場人物の実体は、みんな霞のようにおぼろです。 丸諒はこの二人に、人間臭さを感じるのです。 特にフローラは生暖かい息まで感じられそうで、そう、生々しさが怖いんですね。 これ、実際の絵ではフローラだけが相当大きく見えるんじゃないでしょうか。 この絵の中では明らかに異質な描かれ方をしている。 フローラは天上の住人としては描かれていないんじゃないか。 女神の姿をとりながら、ボッティチェッリあるいはロレンツォは、何か他の意図を込めているのではないか。 丸諒の直感です。 |
| delusion2 ジュリアーノとシモネッタの関係 |
ヴィーナスがテーマというわりに、この絵の中で一番の存在感を放っているのはフローラです。 シモネッタはジュリアーノの恋人だったので、ヒロインのフローラとして彼女を描いたという、 シモネッタ=フローラ説を取っている人はけっこう多いようですが、それはどーなんだろうと思うのです。 丸諒は、シモネッタはジュリアーノの恋人ではなかったと思います。 なぜなら、シモネッタが人妻だったから。 いくらジュリアーノが色事に長けた男でも、また例え大メディチ家のプリンスであったとしても、 堂々と他人の奥さんを恋人にできるほど、フィレンツェの道徳観が爛熟していたとは思えないからです。 ヴェスプッチ家は、商売上の大事なパートナーですしね。 仮に道ならぬ恋が存在したとして、秘めた恋人を街の一大イベントで見せびらかしたりするでしょうか? セニョール・ヴェスプッチの顔は丸つぶれでしょう。 これは、例の槍試合のロマンチックなシーンが文献に残っているので、 後世になってから、あたかも本当に関係があったと思い込まれてしまったんじゃないでしょうか。 槍試合は、フランスの騎士道みたいなノリの、それぞれに護るべき貴婦人を設定して腕を競い合うという、 芝居、演出が施されるのが慣例だったんじゃないかと思います。 見立ての恋人ということです。 ただ、『プリマヴェーラ』の中にシモネッタが描かれているという説は、 丸諒も有り得ると思います。 亡きシモネッタの後日譚として、 父親がジュリアーノに彼女のドレスを贈ったというものがあります。 いかにも叙情的なイメージを持ってしまいますが、それもちょっと違う気がします。 シモネッタは、 ボッティチェッリをはじめとして、多くの絵画や詩に謳われた芸術家のミューズであり、 フィレンツェの恋人とも言うべき特別な女性です。 ごく近い人への“形見分け”といった日本的な感覚ではなく、 最後の晴れ姿の衣装を、この上ない共演者であったメディチ家のプリンスに進呈することで、 薄命だった自慢の娘ないし嫁がさらに神格化されるという、 お互いにとっての名誉ある典礼といったものじゃなかったかと、丸諒は思います。 ただ、この後日譚からは、メディチ家とシモネッタの心的な距離の近さが感じられます。 ロレンツォの言葉からも、 どこか客観性を超えているような彼女へのシンパシーを感じませんか、特に最後の一行あたりに。 |
| delusion3 貞節のまなざし |
もし、シモネッタが『プリマヴェーラ』の中に描かれているとするなら、それは誰の姿か。。。 ここから先はまったくの直感、絵を見た第一印象ですが、丸諒は“貞節”だと思ったのです。 シモネッタとジュリアーノの関係は、もちろんプラトニックなものだったはずです。 だから“貞節”。 でも、愛する弟、 悔やみきれない非業の死を遂げた、 イル・ベッロ=ジュリアーノへの死出のはなむけに、 このヴィーナスの園の中にシモネッタの愛のまなざしを描きこませた…。 妄想です。 が、そう思って眺めてみると、この絵が別のものに見えてくるのです。 三美神は空気のようで、生身感がまったくないですよね。 そして、なんだかみんな悲しそうじゃないですか? |
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三人を並べると、貞節の顔が本当に無垢なことがわかります。 丸諒は彼女のまなざしに「片恋」を感じます。 求めても届かぬ想い。 天界か、幽界から、地上に残してきた恋しい人を見守る、 そんな風情に見えます。 貞節をシモネッタと仮定すると、 この三美神のドラマも、別なものに見えてきます。 彼女が地上への未練に引かされないように、 せめぎ合っているように感じるのです。 愛欲はてのひらで押しとどめ、美はしっかり彼女に指を絡めて。。。 エロスは彼女に向かって弓を引いているけれど、 彼女の顔は、すでに恋に捉われているように見えます。 でも、ここにも実は、時間の秘密が隠されている。 ジュリアーノもすでに幽界の人となって、メルクリウスに変わっているのだから。 次の瞬間、エロスの矢が当たったとき、 貞節はメルクリウスのもとに駆け出すのかもしれない。 天上にひらく恋のつぼみ… 地上では“貞節”な人妻であったけれど、天上で出逢ったら、 彼女の心に恋が生まれても不思議じゃない、あのジュリアーノなのだから。 ロレンツォはそんな憧れを込めた。なんて。妄想です(笑) でも、弟思いのロレンツォが描かせた絵なら、 きっとジュリアーノへの何がしかの思いがあったのではないかと、思うのです。 |
| delusion4 伝令の神メルクリウス |
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メルクリウスが杖で払っているのは、なんでしょう? 日本画の霞にも似た感じのものですよね。 異界を繋ぐ神は、この園にふさわしくないわずかな曇りも敏感に察してしまうので、 侵入しようとする邪魔者を、 |
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| あっち行けと追い払っているのだと言われています。 この楽園の清らかさを護って。 丸諒はそれだけではなく、 伝令神として、旅立つ行く手を払っているように感じます。 さあ、ゼフュロスが来た、春が来た、 愛の花が開いたぞ、ということを世界に伝えに飛び立つために、 雲を散らしているのだと思います。 貞節の思いも知らぬまま…。 メルクリウスの目を見れば、自分の道が見えていますものね。 丸諒はそこにも、ロレンツォの男の気遣い、ダンディズムを感じます。 メルクリウスは、決して後ろを振り向かない。 そこにはもう一つの理由もある。 それはジュリアーノの現実の愛の物語です。 コレ、覚えておいて下さいネ。(思わせぶり/笑) |
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| delusion5 メルクリウスである理由 |
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『プリマヴェーラ』の中にメルクリウスを配したことには、二重の意味があるのではと、 丸諒は思っています。 一つは、 メディチ家個人のパーソナルな祈願が込められているのではないかということ。 メルクリウスは商業の神でもあります。 メディチ家の繁栄を願うには、一番ふさわしい神さまじゃないでしょうか。 翼のついたサンダルと兜を身に付けた、 韋駄天のように素早くて軽快な、若々しい神さま。 在りし日のジュリアーノをイメージさせるような気がします。 ジュリアーノはメルクリウスになったのだ、メディチ家の守護神になったのだ、 ロレンツォのそんな思いも込められているのかもしれません。 |
そしてもう一つは、 この絵が新プラトン主義の世界観を表しているのだろうということです。 ヴィーナスの世界は、天上に君臨しているもの。 そこに近づこうという地上での営みがあっても、そのままでは天上には届きません。 循環させるには、繋ぎ手がいるのです。 異界の間を行き来して、そこで起きた事を伝えてくれるのがメルクリウスなのですね。 天界のメッセンジャーは、プラトン的世界の循環を担っているのです。 |
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| delusion7 躍動する男たち |
メルクリウスは天界と地上と、そして、冥界との間を行き来する伝令神です。 一方、ゼフュロスがここへ来る直前まで足止めを食っていたのは冬、 これも言い方を変えれば死の世界ということですよね。 画面の両端にいる男性二人は、ともに死の要素に関係していて、 その二人に挟まれたヴィーナスの園は、オレンジや花々の息吹に満ち溢れた生命の世界です。 死から生、冬から春へ。 何か、流れのようなものが見えてきませんか? この二人の男性神は、『プリマヴェーラ』の世界になくてはならない重要なキーパーソンです。 世界を渡る者、という性質を考えると、同一人物と言ってもいいぐらいの役割を感じます。 そんな二人に両脇をかためさせている構図、ここには大きな意味があるのです。 |
| delusion8 プラトニックラヴ〜世界を巡る愛〜 |
この絵には、運動があります。 ゼフュロスが降り立って、春が生まれ、メルクリウスが飛び立って、世界に知らされる。 “春”を“創造”と置き換えてもよいかもしれません。 画面の右上からエネルギーが流入し、大地が吸収して画面全体にパワーが満ち、 更なるエネルギーとなって、左上へと流出していく…。 これは、輪ですよね。 天上から天上へという、ダイナミックな循環が起きています。 そして、この天上とはヴィーナスそのものでもあります。 彼女はすべてを眺めている、彼女の手からすべてが起き、すべてを廻しているのが彼女です。 ゼフュロスに恋のエネルギーを与え、 今度は右手で、また新たな恋の命を授けようとしている。 エロスは、ヴィーナスの意思を感じては矢をつがえて回る。。。大忙しです。 ヴィーナスのいる天界に季節はないのです、常にプリマヴェーラ。 この絵は、天上世界の模写であり、地上に訪れた恩愛の瞬間でもあります。 二重構造ですね。 ヴィーナスが降臨して愛を放出すると、天上界と同じように大きなエネルギーが満ちはじめ、 地上の時間は冥界から生命界のものになります。 厳粛な、界の交代です。 だからここに登場させるのは、「死のように蒼い」ゼフュロスでなければだめだったのですね。 ということは、メルクリウスが払っているのも、侵入してきた雲ではない気がします。 これは、もともとここに立ち込めていた冬の雲の名残り、彼は最後の雲を追い払っているのだと思うのです。 春が来たのです。 ヴィーナスの園では、 暖かい西風が花々を咲かせるように、エロスが矢を放って恋を咲かせます。 恋は、万物の誕生に欠かせないものなのです。 もしかすると、恋を恋としてこんなに大きくクローズアップした絵画は、 『プリマヴェーラ』が初めてなのかもしれません。 それまでの世界観は、この絵でガラリと覆されたのです。 キリスト教では、性愛は子供を作る為の行為で、快楽を求めるのは一種のタブーです。 愛とは神から授かる精神の愛のことです。 けれど、プラトン的世界観では、それだけでは片手落ちなのです。 性愛はある意味、人間のもっとも美しい創造、芸術的行為として、謳歌してしかるべきものと考えたのでした。 『プリマヴェーラ』の中では、この二つ共が欠けてはならないものとして描かれています。 ゼフュロスとクロリス=フローラが表現する肉体の愛、そして、 メルクリウスと貞節に見られる精神の愛。 二つが流れ合い溶け合って初めて完成する愛、それがヴィーナスの至高の愛です。 この完璧な愛と、それを生み出すエネルギーの循環そのものに付けられた名が、プラトン的愛=プラトニックラヴです。 本来は単なる純愛という意味ではなかったのですね、この言葉は。 この愛が満ちると、花の女神フローラが地上に歩み出てきて、咲き開く花々を撒き散らし、季節を春にするのです。 これらのすべてを実現させているヴィーナスは、地上と天上と、同時に存在していると考えてもいいし、 世界全体を包み込んでいると考えてもいい。 この愛と美の女神は、静かなまなざしを向けながら、底知れぬパワーを発していのちのすべてを生み出しているのです。 |
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![]() < プラトン的愛の循環 > |
天上から流れ出た愛は 世界を通り抜けて また天上に帰って そしてまた流れ出す 無限の循環 人は愛と美に浸ることによって その循環に参加でき 至上の幸福に到達できる |
この絵のテーマは、新プラトン主義のフマニタス---愛と豊饒の循環です。 言うなれば、幸福の手ほどきとして描かれた絵だと思うのです。 |
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| delusion9 描かれた誕生 |
よく見ると、 ここに描かれた女性たちはみんな大きなお腹をしていますよね。 彼女たちの中には胎動がある---それは、春であったり美であったり、愛、 芸術でもいい。 フローラなど端的にお腹から花を掴み出しているわけで、 そこにはまさしく生命の喜びが宿っています。 豊饒の象徴がこれだけ明確に描かれているということは、 やはりこの絵には、 祝う、もしくは祈る気持ちが込められているのではないかと思います。 ダイレクトに言うと子孫繁栄。 と、ここまで書いて驚きの発見が…。 上の図<プラトン的愛の循環>は、 丸諒が勝手に輪郭だけを抜き出したものなのですが、 フローラを見てください。 赤ちゃんを抱いているように、 見えたりしませんか?! 丸諒も今気がついたのです。 シルエットがはっきりしたことで、 まったく偶然に、 フローラの“抱える”という動作も明確になったのですね。 ボッティチェッリはそこまで考えていたのでしょうか? まさかとは思いますが…ちょっとビックリしました〜。 |
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| delusion10 フローラは誰か? |
ジュリアーノは独身のまま亡くなっています。 そんなに美しいオノコであったのに、子孫を残せなかったなんてもったいない。。。 と惜しむのは早計。 ジュリアーノには忘れ形見があったのです。 正式な結婚はしていなかったのですが、愛人はいたのですね。 彼女の名は、フィオレッタ・ゴリーニ。 どういう家柄の人か、どうやってジュリアーノと知り合ったのか、残っていないのですが、 なぜ彼女の名前がしっかり分かっているかというと、 彼女が身ごもった忘れ形見が、後のローマ教皇クレメンス7世になったからです。 この子が生まれたのが、お父さんが亡くなった年。 つまり、ジュリアーノは身重の愛人を残して非業の死を遂げたのでした。 ロレンツォは、生まれてきたジュリオをすぐに自分の養子にしています。 このフィオレッタのこともきちんと庇護してやったのではないでしょうか。 そうでなければ、こんなに明確に姓名が史実に残ることはないと思います、 母親の名前が不明な系図はいくらでも見られるのですから。 また、そのことからジュリアーノが真剣にフィオレッタを愛していたようにも感じられます。 ロレンツォもそれを分かっていて、ジュリオの戸籍に彼女の名を入れてやった気がします。 正式な妻になれるほどの家柄ではない、市井に生きる娘だったんでしょうか、日陰の花ですね。 ジュリアーノの死にどれほど衝撃を受けた事か。。。 ロレンツォとはどんな言葉が交わされたのでしょうね。 丸諒は、このフィオレッタが花の女神フローラなのではないかと思います。 「花」はイタリア語でフィオーレです。 フィレンツェとはその変化形で「花の街」という意味、英語ではフローレンスという音になります。 女の子の名前にするとフィオレッタ、かわいい花…そう、これは英語だとそのものずばり、フローラなのです。 どうでしょう。 ここまで符丁が揃うのは、単なる偶然とは思えないのですが。 丸諒が制作年を1478年で取ったのも、この事実があったからです。 恋愛は世界の循環そのもの。 プラトン・アカデミーの高弟であったジュリアーノは、当然それを信条に生きていたはずです。 ジュリアーノとフィオレッタの愛も、天上の高みに昇りつめていたことでしょう。 もはや異界の者同士となってしまった二人は、だから視線を交し合うことは二度とない。 しかしその愛はまぼろしではなく、実際に結んだ果実だから… フィオレッタはジュリアーノの命を宿して、地上のロレンツォの前に歩み出てきたのです。 それは悲しみに打ちのめされたロレンツォにとって、まさしく化身した春に思えたのではないでしょうか。 |
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枢機卿時代のジュリオ=クレメンス7世 やっぱりジュリアーノと似てますよね。 これを見る限り、 母フィオレッタも美しい人だったんじゃないでしょうか。 クレメンス7世は歴代で一番の美男教皇なのだそうです。 ただし、彼の代で歴史的事件が色々起きているので評判はよろしくないのです… |
| delusion11 冥界の影 |
ここにいる女たちは、みんな哀しそうな顔をしています。 春ならば、喜びにキラキラと輝く笑顔があふれていてもよさそうなのに。 この絵には誕生と裏腹な死の影が描かれているのだと思います。 クロリスの唇からこぼれる花は、愛の吐息でありながら、抜け出ていく命、魂のようにも感じます。 そういえばギリシア神話には、神に愛された者がちがう何かに変身してしまうお話が多いですよね。 アポロンに追い詰められて月桂樹になったダフネ、ゼウスのせいで牡牛に変えられたイオ。 当のゼフュロスにも、アポロンとの恋の争奪戦で死なせてしまった思い人がヒヤシンスになったという逸話があります。 花の女神に昇格したということは、クロリス自身はどうなっちゃったの? それは、消えてしまったということなの? 性愛の賛歌にまぎれてしまっているけれど、実はそういうことなのかもしれません。 エロスとタナトス---愛と死が、ここには描かれている気がしてきました。 “メメント・モリ”という言葉があります。 “死を記憶せよ”という意味で、 絵画の世界ではボッティチェッリよりもう少し先に行った時代によくテーマに使われた言葉ですが、 考え方自体は古代ギリシャ哲学から派生して、ヨーロッパに根付いていた死生観です。 ロレンツォ自身も謳っていましたよね、明日は定めないものと…。 ボッティチェッリは実に愉快な、明るい男であったかもしれないけれど、 こういう複雑な表情の女たちを描いているのですから、本質は芸術家らしくかなり繊細だったんだと思います。 ましてジュリアーノの悲劇があるのだから、彼らの間でメメント・モリの意識はそうとう高かったと思うのです。 メルクリウスは人の魂を冥界に案内する神です。 この伝令神に擬しながら、ジュリアーノ自身の魂もメルクリウスによって運ばれていったのです。 とても笑顔でいられる心持ちでは、ないですよね。 クロリスが死んでフローラになったのだとしたら、ジュリアーノとシモネッタも含めて、 この絵には意外にたくさんの死の影が、さりげなく描かれているのかもしれません。 だからこそ、それに負けない存在感で、命を宿したフローラは描かれているのだ思います。 人間には必ず死が訪れる。 永遠の命を持つ神たちの方が、それを忘れる事はないのです。 春が美しければ美しいほど地上に永遠は無い、 この女神たちの憂いが、『プリマヴェーラ』に独特のトーンを与えているのだと思うのです。 |
| conclusion 〜妄想の果て。わはは〜 |