サンドロ・ボッティチェッリ Sandro Botticelli の部屋

                                 〜ルーム








サンドロ・ボッティチェッリ
 Sandro Botticelli( 1444/1445 - 1510 )

本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ。







ボッティチェッリとは
『小さな樽』という意味のニックネームです。

彼のお兄さんが太った大きな人だったので、
その弟ということで呼ばれるようになったそうで。

ということはこのお兄さんは、
みんなからボッテ(樽)ボッテと呼ばれてたのでしょうかネ。


ボッティチェッリは、当時の例に倣って13歳で金細工師の処へ奉公に上がったそうです。
15歳上のお兄さんアントニオが金細工師だったので、始めはそこに入ったのかもしれません。

思うに、
このアントニオが例のボッテで、兄のもとでチョコマカと働き始めたアレッサンドロを見て、
人々が小っちゃい樽=ボッティチェッリと呼ぶようになり、
生涯のニックネームになった…とか?

なんて、まあ丸諒の楽しい憶測デス。

そんな中で、
彼には画才がある事が認められ、15歳の時にフィリッポ・リッピの工房に入ります。








 お師匠さんは破壊僧?! 


このリッピという人はお坊さんなのですが破天荒な人で、
飽きっぽくてじっとしていられない上に、とっても女好きだったので、
しょっちゅう仕事を放っぽり出して遊びに行っちゃう。

業を煮やしたパトロンのコジモ・ディ・メディチが二階に閉じ込めて仕事をさせようとしたところ、
リッピはなんと、シーツを引き裂いて縄梯子を作って窓から脱出!
なんて、ホンマかいな?というようなエピソードも伝えられています。

リッピは当代随一の聖母像の描き手として有名でしたが、画風は明るくどこか茶目っ気があり、
庶民からもとても人気が高かったのだそうです。

メディチ家の大立者コジモも、そんな彼の伸びやかさを大らかに許して、
リッピがついに、
修道士の身でありながらモデルの尼さんと駆け落ちするというスキャンダルを起こした時も、
彼の還俗を認めさせ結婚までさせてやったりして、最期まで庇護し続けたと言います。
(リッピ50歳、シスターは19歳!ひ〜え〜!)

コジモって人も相当に太っ腹な御仁ですが、
リッピはもともと生活苦から修道院に捨て子されたぐらいなので、
神じゃなくて人の方の愛の求道者になっちゃったんでしょうかねー、徹底してマス。
(^◇^;)


そんなリッピの工房に入ったわけですから、ボッティチェッリも愛らしい小僧(笑)だったようで、
後に、ヴァザーリの『芸術家列伝』の中で、

 呼ばれもしない宴席にチョコチョコ顔を見せて
 ユーモラスな悪ふざけを仕掛けては座を盛り上げる実に愉快な男


というような人物評をされています。

うーむ、チョイとお調子者な明るいヤツだったのだな。


しかしその画才はめきめきと頭角を現し、20歳の頃には名が知られるようになっていたようです。

フィレンツェを離れることになったお師匠さんリッピも放ってはおけなかったのでしょう、
ルネッサンス一の大工房を構えるヴェロッキオに、ボッティチェッリを紹介して行きます。

運命のステージアップですな。

瞬く間に花形となったボッティチェッリは、マエストロの右腕として活躍します。


その工房に、ある日14歳の少年が入ってきます。
レオナルド・ダ・ヴィンチです。









 ヴィンチ村のレオナルド 


この8歳年下の少年は、ほどなくしてとんでもない画才を発揮し始めます。
彼に描かせた天使の絵を見たマエストロは、そのあまりの優雅さに、
思わず顎がガヨ〜〜〜ン。
「わし、もう絵ヤメる。こんなん見ちゃったら。。。」

さすが、“本当の目”という意味のヴェロッキオという愛称で呼ばれるマエストロ、
真の芸術家だ。
(本名はチアーノさん)
マエストロは画筆を折ってしまったのでした。

と言っても絵は仕事の一部で、アトリエでは彫刻も建築工芸品も山のように作られていたので、
マエストロがゲージツ自体をやめちゃったワケじゃなく、
当のレオナルド少年をモデルにしたと言われる彫像『ダヴィデ』なんかもあります。

そう、レオナルドってばモノ凄い美形だったそうですゼ。

当時の文献の中に、

 容貌全体が何ともいえない美に輝いているので
 その顔を見るとどんなに沈んだ心も晴れ晴れとなる


とか書かれてます。
・・・マジかよ。

ゆえに若い頃には色んな絵師のモデルもつとめていたらしく、
『トビアスと三人の大天使』の左端で剣を持っているのがレオナルドだと言われています。

・・・マジだった。


ダ・ヴィンチの画法は独特で、言ってみれば陰影の天才、
片やボッティチェッリは線の詩人と謳われた天才です。

内省的で愛想の無いダ・ヴィンチは、画風も性格も対照的なボッティチェッリを、
ライヴァルと思っていたらしいです。

でも、当時もてはやされていたのはボッティチェッリの優美な線と色。
時のスター、ボッティチェッリには、
少年ダ・ヴィンチのひたむきな闘争心もあんまりどうってことなかったみたい。

ダ・ヴィンチの進んだ画法は???という人の方が多かったようで、
ヴェロッキオの工房では、彼は孤独だったようです。


しっかしま〜凄いアトリエです。。。ボッティチェッリにダ・ヴィンチが徒弟だったなんて。
他にもわんさと、丸諒が知らないだけの有名な芸術家を育てた工房だったのですね。
若いクリエイティブな活気で、みんなピチピチしてたんだろうな〜。


この偉大なヴェロッキオ工房のパトロンだったのもメディチ家です。
てゆーか、メディチ家がいたからフィレンツェに大芸術家たちが育ったワケですが。








 黄金の百年〜メディチ家の時代〜 


メディチ家は、この頃の世界で一番のお金持ち
と言っても過言でない大銀行家の一族です。

フィレンツェはヴェネツィアと同じく、ずっと共和制でやってきた国です。
その中でも突出したこの一族は、貴族でも何でもない平民、一介の商家です。

のにっ、
例の生ぐさ坊主リッピのパトロン、コジモ・ディ・メディチ(1389-1464)は、
『祖国の父』とまで言われるようになっちゃう。

共和制と言いつつ実際は、
貴族階級がジタバタと権力争いを続けてきたのがフィレンツェです。

今なんかよりもーっと勝ち組負け組に分かれてたんですね。

新興勢力---ま、いわゆる成金
(ごめん;)の、メディチ家当主コジモは、
内外の強〜い国や教皇庁にまで、お金貨しちゃえる経済力を持った超勝ち組
★★★★★
だったのですが、

「一人勝ちはマズイやね、王様なんて思われたら結局ロクなことになんないもんねー」

ってことを分かってて、
(聞いとけよ誰かさん…あ、もう牢屋だった)
自身が貴族になろうともしなかったし、
貴族より庶民を大事にしてあげたし、
争いごとは最も経済を疲弊させる、ってことも分かってたので、
コトに当たっても穏便に、非闘争的に、和を持って成す!
(by聖徳太子in Japa〜n)
という解決を重ねたので、

「あんた貴族サマじゃないけど、オレぁあんたのやり方ぁ好きだねっ」

と市民から絶大な人気を誇った、人格者だったのであります。
んで、実質的なフィレンツェ共和国の支配者となっちゃった。

合理的です。
根っからの商人、経済人だったんですね、コジモって。

名より実を取ったわけです。



彼はまた、その富を惜しむことなく芸術振興へと向け、数多くのアーティストたちを庇護します。

この人のおかげで、フィレンツェは長く安定と繁栄を保つ事ができ、
誇り高い芸術都市へと生まれ変わることが出来たの。。。
黄金の百年のはじまりです。





コジモ・ディ・メディチ
愛称:イル・ヴェッキオ=長老

 〜*〜 マキャベッリの言葉 〜*〜


 コジモは中背で、顔はオリーヴ色がかった褐色で長老的風格があった。

 博學ではなかったが、極めて雄弁で、自然に滲み出る賢明さに溢れ、

 従って友人に対しては礼儀正しく、貧しい人たちにも思いやりがあり、

 会話は的確であり、忠告は慎重で、実行は俊敏にして、

 彼の言葉と返答は機知に富み、かつ重々しかった。









 ルネッサンスの黎明 


時は遡ってボッティチェッリが9歳の頃、
遥かエーゲ海は東のさらに奥深〜いところで、
コンスタンチノープルの陥落という大事件が起きました。

当時、コンスタンチノープルは東ローマ帝国千年の首都にして、
世界の富の三分の二が集まると言われた最先進都市!

オスマントルコとの長年の小競り合いの結果、領土はどんどん小っちゃくなってましたが、
ギリシャとオリエントが融合したビザンチン文化の華はなおも満開の花盛り。

世界の知もまたここに集まっていた、
腐っても鯛、老いたりと言えど武蔵
(ん?)灰になっても女っ(んん?)
てな感じの、比類なき文明の帝国だったのです。




それがついに宿敵トルコによって滅亡させられ、多くの文化人がフィレンツェへと逃れてきます。

トルコ人のばかぁ〜 なにするだ〜


14年前に“フィレンツェ公会議”という宗教会議の仕掛け人になって、
ビザンチン帝国と太いパイプを築いた、コジモの開明的な人柄を頼って、
集まって来ちゃったんでしょうね〜。

コジモは、古からの“ギリシャのソフィア(智)”を脈々と受け継ぐ、
このビザンチンの文化人たちにいたく刺激を受けます。

そして、彼らに自分の別荘地を開放したことで、このフィレンツェ郊外に知的サークルが誕生します。

プラトン・アカデミーです。


彼らが信奉する新プラトン主義とは、
一言でいうと、美の理想を追っかける学問、って感じですかね。

えー、丸諒的に解釈するに、

キリスト教的世界観では、
愛は神によって与えられるもので人はあくまで受け身
受けた人間は、聖書の教えの通りに生きる事によって神にお返しする

というような、
言ってみればまず個人的な、神との“矢印の往復”
↓↑って感じなんだけど、

プラトン的な世界観では、愛は輪っこ、
なの。

天上から流れ出た愛は、世界を通り抜けて、また天上に帰って、そしてまた流れ出す無限の循環
人は美に浸ることによってその循環に参加でき、至高の世界に到達できる 


という感じで、初めからすべてと繋がってるの。
だけど、それは普段なかなか実感できない。

で、
美的な創作活動をして、あくなき理想美の追求をすれば、それが分かるよ、
その繋がりが自分のものになって、素晴らしい生き方が出来るようになるよ、
というわけ。


ほら、これってまさしくルネッサンスの意識そのものでしょ?
人間がアグレッシブに世界に働きかけることで、世界は更に造られるのだー、という。


イタリアのルネッサンスって…東ローマ帝国の滅亡が生んだモノだったんですねー!
 やっと気づいたか愚か者め…


このアカデミアの最も熱心な生徒が、コジモの孫息子でした。
初めにご紹介したイル・マニーフィコ、本家のロレンツォです。








 神に愛された男 


ロレンツォ・イル・マニーフィコ(1449-1492)は、メディチ家の中で一番有名な人物と言ってもよいでしょう。

イル・マニーフィコとは『偉大なる者』と言う意味です。
もちろん本当の名前はロレンツォ・ディ・メディチ。

なんでキャッチコピーで呼ぶかと言うと、
生まれた子どもに祖父とか祖母の名前を付ける習慣があったせいで、
一族の中に同名異人がウジャウジャいて、紛らわしかったからなんでしょうね。
(だったらその名づけ方自体をやめりゃいいのに、ねェ(笑)

でもボッティチェッリの例もあるように、
市民階級でも愛称で呼ぶのはけっこうフツーだったみたい。

前にご紹介した夭折の天才絵師ジョルジョーネ
(眠れるヴィーナスの人ネ)も、
大らかであたたかい性格だったので、
本名のジョルジョに伸びやかさを表すオーネを付けて呼ばれたのだそうです。

愛される人には愛称が付くのカモ?

で、このロレンツォは、
フィレンツェの一番華やかな時代を現出させた英明なリーダーです。

例によって、マッキャりんの言葉でご紹介しましょう。
(だ、誰だそれ?)





ロレンツォ・ディ・メディチ
イル・マニーフィコ

 〜*〜 マキャベッリの言葉 〜*〜


 ロレンツォは運命と神によって、この上なく愛された。

 彼の企画したことはすべて優れた成果を達成し、彼の敵はみな悲惨な最期を遂げた。

 ロレンツォの場合、無数の美徳を汚す悪徳を挙げることは不可能である。

 物事を論じる時には雄弁で才気に満ち、解決に際しては賢明で、実行においては迅速で勇敢であった。

 だが彼は色事には驚くほど精通しており、冗談好きで毒舌の仲間と交わり、

 立派な大人に相応しくない程子供っぽい遊びに夢中になり過ぎた。

 ロレンツォは建築も音楽も詩も、驚くほどに愛した。




10歳の時にはフィレンツェ大学に通って(!)古代ギリシャへの造詣を深め、
ペラペラのラテン語でアカデミアの学者たちと討論に熱中したり、
哲学から文学、建築、音楽まであらゆる学芸に精通した「万能の芸術家」に育っていきます。


祖父コジモの薫陶よろしく、徹底した帝王学をほどこされたメディチ家の若様は、
しかしガチガチの秀才ではありませんでした。

快活で人間的魅力にあふれたロレンツォのまわりには、
貴族の若者がいつも集まってきていて、
三つ年下の弟ジュリアーノとともに、
仲間たちと派手な服装で街に繰り出しては遊びまわっていました。

庶民的な祝祭なども豪勢に主催したりして、人々と一緒に羽目をはずして楽しんだといいます。
遊び上手な気前のいい若様を、フィレンツェ市民は大好きだったようです。


ロレンツォは、女流詩人だったお母さんの血筋か詩作の才能もあり、
彼の作った『バッカスの勝利』はいまだに歌われているそうです。


コレ、なんとこの遠い極東の島国とも縁のある詩なのですヨ。


     命短し 恋せよ乙女  赤きくちびる 褪せぬまに


ご存知吉井勇の『ゴンドラの唄』ですが、この原詩が『バッカスの勝利』らしいのです。


     青春はうるわし  されど流れさってゆく

     楽しむなら 楽しもうすぐに!  明日は定めないものだから



これがヴェネツィアに伝わって、カーニバルでよく歌われているので自然ヨーロッパに広がり、
留学経験のある森鴎外あたりを経由して吉井の作詞となったのでは、という説があります。

だから“ゴンドラ”なのかぁ、何で?と思ってたんだよー。
ちなみに椿姫の『乾杯の歌』もコレが基では?と言われています。

500年経っても伝承されてるんですヨ〜、ロレンツォすごい!








 フィレンツェの春 


ロレンツォが父の急死で一族の長となったのは若干20歳の時。
ちょうど同じ年、25歳のボッティチェッリも独立して自分の工房を開きます。
奇しくも同時に世間にデビューしたワケで、いよいよフィレンツェの花の時代が始まります。

この頃のボッティチェッリのパトロンはヴェスプッチ家。
フィレンツェの富裕な商家で、一族の中には少年時代のアメリゴ・ヴェスプッチもいました。
後に発見される新大陸アメリカの、名前の由来となった探検家商人です。
(=@o@=)oh〜!


メディチ家とは、師匠二人を通じて既に関わりがあったので、
ボッティチェッリがアカデミアに顔を出すようになったのも当然の帰結って感じ?


ロレンツォは彼のことも詩に残していますヨ。

 食いしん坊のボッティチェッリ。
 彼は蠅より厚かましく彼のおしゃべりを聞くのは何と楽しいことか!


…コ樽通り越してボッテになりそうな勢いだったのですね(笑)。


アカデミアは、ロレンツォの時代になっていよいよ華やぎを増していました。

芸術の庇護者としての彼の目は卓越していて、
親を亡くした14才の少年を引き取って育てたりもしています。

なんと、かのミケランジェロですぜ。

ボッティチェッリの次の世代の天才です。
ロレンツォってヤツは…感嘆ですね、確かに、イル・マニーフィコだったのでありました。


おもしろい絵があります。
イエス誕生を知った三人の賢人がお祝いに訪れたという聖書の逸話がテーマの、
『東方三博士の礼拝』。
ボッティチェッリは数多の登場人物の中に、メディチ家ゆかりの人々を描き込んでいるのです。

(自分のことも描いてます。一番目立ってマス(笑)

プラトン・アカデミーの、知的で華やかな雰囲気が伝わるようです。
ボッティチェッリにとっても、自分の絵を面白がり芸術家として尊重してくれる、
浮き浮きするような場所だったんじゃないでしょうか。


それまでの彼の絵は、リッピとヴェロッキオという巨匠の影響が大きく見られる画風で、
テーマも、当時の画工の例に漏れずキリスト教絡みが多くて、
丸諒的にはあまりソソられません。
m(_ _)m しゅんましぇん

ところがこのアカデミアに接し、彼らの希求した「フマニタス」
(=人間性の愛:ヒューマニティの原語でしょうかネ)
という、大らかで魅惑的な異教の世界を知ったことで画風も一変、
華麗な“ボッティチェッリの線”を生み出すことになります。


知〜らな〜い♪
 なんてーか、
 繊細というかやさしい男だったんですかねぇ、コ樽クンは。

 感受性が鋭くて周囲からの影響を受けやすい、
 完璧な“感性の人”だった気がします。

だって、時代の変化に合わせて、作風が三度も激変しちゃうの。
(その辺がまたダ・ヴィンチとは対照的なんだよね。)

後に訪れる三期目への変容は、悲劇的でかわいそうに思えるのですが。



しかし、この頃はともかくアカデミア一色の、彼にとってもっとも幸福な時代です。

イル・マニーフィコに可愛がられた、この“実に愉快な男”は、
ルネッサンスの魔術師として素晴らしい傑作を次々に描いていきます。

その筆頭が『春〜プリマヴェーラ』。


この絵はタイトルそのままに、
メディチ家、ボッティチェッリ個人、そして芸術の歴史、それぞれの、
春の時代の象徴です。


人と時間のエネルギーが頂上に達し、すべての躍動が咬み合う時、
人間は人間の力を超えた“素晴らしいもの”を生み出すのかもしれませんね。

ああ、そうか・・これが、プラトンの輪なのか・・・。







『プリマヴェーラ』には、ロレンツォの“想い”が込められている、と言われています。

それは、彼が愛してやまなかった弟ジュリアーノの悲劇です。

フィレンツェ中の人々を深い悲しみに暮れさせた、はかなくせつない二つの出来事。。。






では、イル・ベッロ=美しきメディチのプリンスのお話とともに、
いよいよ『プリマヴェーラ』を読み解いていきましょう。




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