アレキサンドル・カバネル Alexander Cabanel の部屋








『諒子のお気に入り〜絵画編』とでも銘打ちましょうか

大好きな作品への想いあれこれを綴って参りたいと思います。




第一弾、’06年のトップページを飾りましたのは、カバネルの『ヴィーナスの誕生』





このタイトルの絵画と言えば、ボッティチェリの作品が有名ですよね…  
例のコレ→


“海”と、“裸体のヴィーナス”というモチーフは同じですが
ルネッサンスの黎明から350年ほど経ると
ヴィーナスもここまでリアルに熟れちャう(笑)という。。。







The Birth of Venus  1863

このまなざし。大好きな“世界美術館紀行”で、アップで見せてくれた時は思わずゾクッと来ましたねぇ。
女神というよりは娼婦のソレですよね。この画像では分りづらいと思いますが、それはもう、物憂くいざなう目…なのです。




アレキサンドル・カバネル(1823-1889)は、19世紀フランスアカデミーの巨匠です。
アカデミーってのは、17世紀にフランス政府が興した国立の美術学校。

それまで絵を描くことは、工房に弟子入りして、

親方ギヨーム 「掃除が済んでないじゃないかっ」
弟子ダニエル 「はいマスターすぐに!」
親方ギヨーム 「朝飯はまだかよっ」
弟子ダニエル 「はいマスターすぐに!」
親方ギヨーム 「ワシの一張羅の絹のブラウス洗濯してないじゃんかっ、
          アレ着て今夜マドレーヌちゃんのとこ行こうと思ってるのにきーっ!」
弟子ダニエル 「はいマスターすぐに!」 (※この会話はフィクションです)

というような、おおむねご無体な親方と寝食を共にしながら、
四苦八苦して絵の技術をだんだんモノにしていくという徒弟制の中にあったのです。
絵描きさんは職人だったのですネ。

そこを改革したのは、かの太陽王ルイ14世。

「イタリアルネッサンスの後、世界のカルチャーリーダーになるのは我がフランスよほほ。
 朕は国家なり〜」


と言ったか言わなかったかはさておき、


光りモノ好き♪
ちゃんとした教育の場を設けて、画家という職業を確立させたシステムが、
アカデミーなワケです。

当初は会員制で、アカデミー会員になることは輝く未来を約束されたことになるという、
鼻た〜かだっか〜なエリート芸術家集団だったのですネ〜。

カバネルの時代には一般の応募者も、
アカデミー主催の展覧会<ル・サロン>に出品できるようになっていました。

時の統治者、ナポレオン3世によって、

「君のが一等賞!」


と墨付けられた作品が、この『ヴィーナスの誕生』です。


1世の甥っス…
カバネルの筆致は、とにかく滑らか。
繊細優美にして、これでもかと筆の跡を見せない丁寧な仕事ぶり。
これこそが、アカデミーの教える正調なワザです。

カバネルは押しも押されもせぬ国家の画家として、この受賞以来、絶大な人気を誇り、
アカデミーの教授になります。
栄光の人生です。
                           マドレーヌちゃん♪(もち架空の人物ヨん)


実は、この時のサロンに出品して、

「こ、この破廉恥ものっ!不届きものっ!芸術を冒涜する恥知らずっ!」

と、大ヒンシュクの罵詈雑言を浴びて落選した作家がいます。
それは、印象派の先駆者マネ(1832-1883)。

作品は、『草上の昼食』です。


       ↓
Le Dejeuner sur L'Herbe 1863
 うふ


いやむしろ、カバネルのヴィーナスの方がよっぽど扇情的なヌードに見えるんですけど。。。

なんでこの絵が画壇から一斉攻撃されたかと言うと、
この裸婦が“一般のご婦人”だからなのです。

現代のわたしたちから見ると、裸婦は裸婦だろぉ〜、という感じなのですが、
このマネ以前、裸体で描かれてユルされるのは、女神さまだけだったのです。

たとえカバネルのように、誰がどー見ても娼婦っぽいよね、という絵だったとしても、
ヴィーナスだからおっけー、なワケです。

でも、この草の上でおひる食い終った女の人は一般人だからダメー!なの。


ちなみに、『草上の昼食』には元絵があります。
     ジョルジオーネの『田園の合奏』  →

このご婦人たちは女神さまだからいいの、裸体でも。
てか、この着衣の男たちにはそもそも姿、見えてませんて感じ。
たぶんミューズなのね、笛持ってるし、
汲み上げている水はまさしく、インスピレーションの源泉ですナ。

一目で神話な世界ってことは分かるでしョ?
んで、
マネの絵をもう一度見てみると、似たような絵ヅラでも、
やっぱいきなり生活感かもし出してるもんね。うむ。

というワケで…


 
             このミューズたち
             なんて好感の持てる身体つき…





「なんちゅー絵、描くねん!エロ絵描き!すきゃんだるっ!」


と言われて、キケン極まりない絵ということで、

「絶対、見ちゃダメ!」

とされたのですが、あぶないブツほど見たくなるのが人情。。。

納得のいかないマネや他の出品者たちの“落選展”が開かれるや、
パリ市民は本家サロンそっちのけで、こっちの方に列を成したという。


マネの絵は近目で見るとタッチがかなり粗く、アカデミー側からすれば、

「基本も何も分っていない素人の汚い絵」

という見方だったようで、
アカデミーの重鎮となったカバネルは、マネ以降の印象派の絵を毛嫌いしたといいます。

しかし、いつの世も“本物”を証明するのは民の声なのかもしれませんね、
今やマネは世界の巨匠として、
21世紀の今日までその名を輝かせているのですからね〜。



                                             


ところで、マネには『草上の昼食』と並んでもう一つ、有名な代表作があります。
『オランピア』です。


この『オランピア』が、ヴィーナス絵画の歴史のひとつの終着点ではないかと、
思われるところがあり。。。

カバネルとは天敵同士だった関係ですが、
美術史の流れの中では、見事にヴィーナスの本流に並び立つ二人の作家であると、
ワタクシは思うのです。
 クリック!
  

 では、

 麗しきヴィーナスの系譜
を覗いてみましょうー!















アカデミー絵画は、美の究極を具現化するところにその使命があるのですね〜。
一言でいうなら端正な絵、ということじゃないかと思います。

その反動として出てきた印象派の、強烈な個性が礼賛されている現在、
アカデミー絵画は、単にとりすました気取った絵という位置づけで、
ほとんど評価されていないようです。




でも、このカバネルの絵。

目の前にあったら、ただ通り過ぎること、できます?


あたしがカバネルに魅かれた最大の要因は、
“闇のエロス”が溢れていることです。

いけないモノを見てしまった、というような、ハッとして目が離せない、
危うい退廃の美。

ことさら写実的に描かれているだけに、
それがよけいに浮き彫りになって立ち上がってくる。

そのギャップ。


そして、何なのか見極めようと見つめれば見るほど、結局、湧いてくる言葉はひとつ。

「うつくしい。。。」

こういう絵画があるんだ…。
驚きでした。



フランク・ディクシー卿の世界を知ったのも、実はこのカバネルとの出逢いがキッカケでした。
自分の中のエロスの具現としては、カバネルの絵がもっとも理想的だったのですが、
さすがに芝居の邪魔になるので、『甘い生活』で使おうとは思えませんでしたけどネ。

もう一度、ヴィーナスを見てみてください。

ちょっと、一筋縄ではいかない感じでしョ?









このヴィーナスと対になるのでは?と思える作品が、カバネルにはあります。

『The Fallen Angel』…邦訳は付いていないようですが、

あたしはこれを『堕天使』と呼びたい。それ以外には考えられない(笑)。

だって、ホラ。。。

     ↓


The Fallen Angel 制作年不明

このまなざしの強さといい、総毛立った髪といい、不穏です。

落ちた天使の艶やかな肌は壮絶に美しい。

でも、身体の下敷きになった蔦は見る間に枯れていくのです。

惜しんでいるのか嘲笑っているのか、天上に舞うかつての仲間たちは

純白の翼をはためかせて、空気のように軽やか。

彼は落ちて、重い肉体を持ってしまったということでしょうか。

いったい何を、祈っているのでしょう…。


   彼の名はルシフェル。

   かつては天上界最高位の天使でしたが、
   いつしか、神を超えた存在であると慢心するようになって、
   地上に落とされ、悪魔となったのだといいます。

   ルシフェルは明けの明星、金星の象徴です。

   陽が昇る直前に、人々の目を射るほどに輝くその星の在りようが、
   “驕慢”をイメージさせたからでしょうか。

   もちろん、金星と言えばヴィーナスの星です。

   愛と美の女神と悪魔が、同じ星の裏表である不思議。。。
   それが、カバネルを惹きつけたのかもしれません。

   彼のヴィーナスには、見る者を誘い惑わす、
   むせかえるほどに甘い匂いが立ち昇っているような気がしません?

   ヴィーナスは、時おりこうして地上の海辺に仰臥しては、
   物憂げな姿態で、この堕天使さえも誘惑しようというのでしょうか。

   あるいは、この暗いまなざしの奥の燃えさかる焔で、
   愛の女神の魂さえも絡め盗ろうと、堕天使は罠をしかけて待っているのでしょうか。

   永遠に勝負のつかない、ラブゲームの繰り返し。。。それは間違いないでしょうね。









アカデミーの教授らしい、乱れのない優麗な筆致を持って、
しかしカバネルは、その立場をギリギリで裏切っているような世界を描き続けます。

彼岸のかげろうのような、闇からの光を受けて息づく身体。
蒼いまなざし。



彼はいったい、人生に、女たちに、何を見ていたのでしょう。









カバネルの手にかかると、死の刹那さえも甘美な空気をまとってしまうのです。


『Ophelia』です。





Ophelia 1883

イノセンス…

清らかな森の陽射しに照らされたその顔からは、何も読み取ることができない…鳴呼。

今しも、右足は水底に沈みはじめ、ずるずると落ちていく、それさえも分からぬオフィーリア…。














もっと動的な絵もあります。




ローマ神話から題材を得た、『ニンフとサテュロス』。








このサテュロスの怖ろしい顔。。。ほとんど悪魔です。
捕まったニンフは気絶寸前。

あまりにも生々しいバイオレンス、そして、それが生み出すエロス。。。どーしましょ。


Nymphs and Satyr 1860
 このサテュロスの表情と山羊の脚を見て、
 はじめは本当に悪魔だと思ったのですが、
 ローマ神話で女性を略奪するのはもっぱら神の仕業。

 おかしいなぁと思ったら、
 サテュロスはバッカスの従者で、半獣半人の森の精でした。

 音楽と踊りを愛する好色漢で、
 神話の中でニンフたちと楽しくふざけ戯れるシーンは、
 明るいエロスに溢れているように感じます。

 そう、ブーグローの『ニンフとサテュロス』(1873)は、
 まさにそんな感じ。
 彼は、アカデミーでカバネルの同輩でした。

←触れてください


 カバネルはやっぱり闇に魅かれた画家ですね。

 同じテーマでありながら、
 二人が切り取ったのは真逆の視点です。。。

 彼の“官能”は、影の中にこそ存在していたのですね。


 カバネルの世界の中には何が潜んでいるんだろう…

 こうして比較してみるとよけいに知りたくなって、
 ついじっくり絵を見てしまいませんか?

二人ともアカデミーの大教授です。
絵画にことさらエロスが持ち込まれた時代ではありますが、
それにしても、“エライ人たち”が描いたと思うと、なんだか落ち着かない気分になる(笑)。


このブーグローにはおもしろい主題の絵がたくさんあるので、
いずれご紹介したいと思いますが、
彼の作品を見ていると、アカデミーの画風がなぜ衰退していったのか、
そして、印象派がなぜあれほど席捲していったのか、分かる気がします。


端整すぎて描き手のエモーションが感じられない。
つまらない。分かりやす過ぎる。
ゆえに俗っぽい。

現代の、アカデミー派に対する評価はこんなところかと思います。


サー・ディクシーの稿でも書きましたが、甘美に過ぎるものは軽んじられやすい。


それに、時代の不幸、というか進歩なんですけど、大きな変革が重なりました。

ちょうどこの頃、写真が登場してきたのです。


絵画が写実の意味を失ってしまったのですね。


数千年を経て、人が絵筆を持ってリアルを写すという技が、
ここまで究極に至ったからこそ、時代は次の新しいものを用意してきたのかもしれません。


絵であって、写真ではない。
何を追い、何をこめるか。。。

何か、ハッキリとは掴めない思いが、やはり人の心を動かすのですね。




そう思って、このアカデミー最後の巨匠カバネルの絵を見てください。




実在の人物なのか、夢のひとなのか、
女性の肖像です。





『アルベデ』









Albayde 1848


世の中に、こんなに美しい絵があったのか。












100年前のナポレオンのエジプト遠征以来好まれた、オリエンタルが主題です。
描かれているのはハーレムの一室。

朝顔は、フランスでは“真昼の美女”と呼ばれています。

ひと時だけ咲いて、死んでしまう花。

アルベデ。





















今、デジカメの登場でプロの写真家がその存在意義に迷い始めていると、
あるカメラマンさんが言っていました。

いずれ僕らが使っているようなカメラはなくなりますよ。

そうも仰っていました。



時代は、また動き始めているようです。



美しいものを追い求めたい。


それだけは、
永遠の真実。


だから、
カバネルの世界が大きく迎えられる日が、まもなく、必ずやって来る。
私はそう思うのです。